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下村努「史上最悪のハッカー」を追いつめた日本人 週刊文春 1995年3月9日号


下村努「史上最悪のハッカー」を追いつめた日本人 週刊文春 1995年3月9日号


今やインターネットは世界中にネットワークを持ち、電話回線だけで電子メールから国家機密情報まで網羅されている。同時に、できないはずの機密情報や個人情報にアクセスするハッカーも増える一方だ。始末の悪いことにハッカーの醍醐味を一度覚えると簡単に足を洗えなくなる。


ケビン・ミトニック(31)もその一人だった。10代の頃から病み付きになり、何回逮捕されても懲りることを知らなかった。友人は少なく、ハッキングに時間を費やしすぎて結婚が破綻したほど。MCI電話会社にアクセス、さらにクレジット・カードの番号を2万個も盗んだ。しかし盗んだ情報を売って金儲けをするわけではない。目的はただ盗むだけ。そして1992年執行猶予中に姿をくらまし「史上最悪のハッカー」になった。

そのミトニックが2月16日、逮捕された。「史上最悪のハッカー」を追いつめたのが、写真の下村努さん(30)。政府の運営するサンディェゴ・スーパーコンピューター・センターで、競争原理を専門とするシニア・リサーチャーである。


自分のハッキング能力を過信したミトニックは、コンピュータ・セキュリティに関しては右に出るものがないと言われる下村さんのコンピュータから情報を盗んだ。昨年のクリスマスのことだった。連邦政府も頼りにするほどの天才で、業界中にその能力の高さが知られている下村さんのプライドは傷ついた。


それから2ヶ月。研究そっちのけでハッカー探しに打ち込んだ下村さんは、ついにノース・カロライナ州ローリー界隈に住んでいることを突き止めた。無線電話の周波数を探知する機械をバンに乗せ、その居場所をかなりの範囲まで狭めたうえでFBIに連絡した。


下村さんの父である下村修博士(66)は、マサチューセッツ州の海洋生物学研究所で発光学の研究に専念し、母親の明美さん(58)はその助手を務める。ともに長崎県出身で長崎大学薬学部卒。修博士は1960年にはフルブライト奨学金で、プリンストン大学に2年間留学。帰国後名古屋大学で理学部の助教授を2年間やったが、結局再渡米した。下村さんが生まれたのは、渡米直前の1964年10月である。


母親の明美さんによれば、子供の時から壊したおもちゃ修理することに関心があったという。小学4年ぐらいからコンピュータを教えられたところ、「努はもうその瞬間に虜になリました」。12、3歳のときにはすでにアルパイトができるほどプログラムの能力を発揮。高校のときには父親のプリンストン大学のコンビュータ室に入ったまま、明け方まで実家に帰ってこなかったこともしょっちゅうだった。その後カリフォルニア工科大学に進み、ますますのめり込んでいった。


世界中から取材の申込みが600件も来ているという下村さんを追い続け、サンフランシスコから南に180キロのモンテレーにあるホテルで直撃インタビューを試みた。

「まだ(日本語は)なんとか読めるけれど」と英語で答えたが、日本人であるのに、決して日本語は話さない。普通のラップトップの四分の一くらいのコンピュータを膝に置きポーズをとる。無線でサンディェゴのセンターと繁がっているこの機械をいつも持ち歩く。


- あなたの本職はハッカー探し?

「今回の件で、ハッカーを捕まえるの専門のように思われているが、本職は物理学者なんです。子供のころから物理学者になりたかったので、今の自分は幸せ。人生は楽しくなければならない」


- ハッカーについてどう思うか?

「ミトニックのやったことは、ハッキングする能力ががあるからといってやるべきことではない。そういう行為は断じて許せない」


- コンビュータ犯罪を裁くのは難しい?

「常に技術が法律よりも先行するので、法律がついていけないのも深刻な問題」


果して彼が日本で教育を受けていたら、ここまでの能力が発揮できただろうか?

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