徳のある政治家は“市民の議論”から生まれる マイケル・サンデル(ハーバード大学教授) 月刊Voice 2011年2月号



月刊Voice 2011年2月号

徳のある政治家は“市民の議論”から生まれる

マイケル・サンデル(ハーバード大学教授)


60万部を突破し、異例の大ヒットを続ける『これからの「正義」の話をしよう』。ハードルが決して低いわけではない哲学書がどうして、ここまで日本人の心を揺り動かしたのか。なぜグローバリゼーションが進む時代、新しい市民道徳の育成が必要なのか。「白熱教室」の興奮を誌面で再現する!



いまやハーバード大学だけではなく、地球の裏側にある日本でも大ブームになったマイケル・サンデル教授の「白熱教室」。「日本人は議論が苦手と聞いていたが、昨年8月に東大で行なった講義ではけっしてそういう印象を受けなかった。ハーバード大学の学生とレベルは変わらないのではないか」。そう教授は振り返る。


講義のエッセンスを凝縮した書籍も哲学書では異例のベストセラーとなり、いまも版を重ねている。「講義では次にどんな展開になるかわからないというサスペンスがあるが、本では当然、それがかなり損なわれる」と教授は心配したが、それでも「白熱度」は変わらなかった、ということだろう。


アメリカを移動中の教授をサンフランシスコでつかまえて、日本で巻き起こった「白熱教室ブーム」への驚き、情報化社会における「学び」の意味、そして混迷状況を打破する「徳のある政治」の創成など、示唆深いお話をうかがった。



想像だにしなかった日本での反響


- いま日本で、『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)は61万部突破という大ベストセラーを記録しています。なぜ、これほどまでに大きな反響を巻き起こしたとお考えですか。日本人がここまで関心を示した要因を、どのように分析されていますか。


サンデル 私の本が日本でここまで受け入れられたことに驚嘆しています。哲学についての本がこれほど多くの人に読まれるとは、想像だにしませんでした。


昨年の夏、訪日したときに感じたのは、社会にある大きな問題について議論したい、という日本人の気持ちです。それに対する飢えのようなものがいまの日本人、とくに若者にはあると思いました。そもそも、さまざまな価値観について深く議論したいという気持ちがなければ、いくらこのような本が出ても売れなかったと思います。正義や公正について考えたい、という気持ちを日本人がもっていたことは確かでしょう。


しかし「哲学」というと、堅い感じがしてそのままでは抽象的で興味が湧きません。私も大学のころ哲学を勉強しようとしましたが、自分でも理解することができずにあきらめたほどです。本のなかには著名な哲学者の理論がたくさん出てきますが、それはあくまでも読者に熟考させる手段を与えるためです。つまりは、どう正義や公正の問題を考えたらよいのかわからなかったところで、私の本がよい指南書になったのではないか、と考えています。


じつをいうと出版社には何年も前から、この講義の本バージョンを出さないか、と打診されていました。しかし、ずっと二の足を踏んでいたのです。本を出すというのは「種明かし」のようなもので、学生たちに先に本を読まれてしまうと、講義で感じるワクワクした気持ちが失われてしまうのでないか、と思ったからでした。だから、その提案を断りつづけていた。しかしPBS(公共テレビ放送)が私の講義を録画してテレビで放送しようと決め、それをウェブサイトにも載せる、ということになった。その段階で、ならば本を出してもよいのではないか、と判断したのです。


- 本を出すと決めたとき、どのような課題に直面しましたか。


サンデル 二つあります。一つは生の講義のエネルギーと議論の自然発生的要素をどのように本に取り込むことができるかという問題。自分の考えだけを示すのではなく、議論の要素をどのように提示していくか、という問題です。もう一つはそれぞれの哲学者の考えを単純化しすぎないよう、明確に書くということ。読者は素人であると仮定して、正確にわかりやすく書かなければなりません。しかし簡単にしすぎても誤解される。この二つはチャレンジでしたね。


- それはサイエンスでも同じだと思います。サイエンスは複雑で難解な分野ですが、それを素人用に単純化しすぎると、誤解が生まれてしまう。


サンデル 哲学にも同じようなチャレンジがあります。だから具体例やストーリーを使うしかない。いま起きていることを使えば、そのストーリーは誰にでも理解できるわけですから。


- 学生の理解が進むよう、このような「対話」形式の講義を採用したのでしょうか。


サンデル 先にも述べたとおり、私は大学でプラトンやアリストテレスの哲学を学ぼうと思いましたが、内容が抽象的すぎて、勉強するのをあきらめました。それは哲学だけを学習しようとしたからです。だからこそ政治をくっつけると具体的でわかりやすくなると思った。


- 哲学と現実に起きていることを結びつけるのは、斬新なアイデアだと思います。


サンデル 抽象的な考え方を理解するには、いま起きていることにそれを結びつけて考えることがもっとも近道です。具体と抽象を行ったり来たりすることで、理解が進むようになる。


しかも私の教える内容は、一方的に自分の考えを述べるわけではなく、議論することで導いていくものです。だから、自然に「対話」形式にならざるをえません。1980年からハーバード大学で教えはじめましたが、当時の私はまだ若い助教授で、講義には100人くらいしか参加していませんでした。それが2年目には200人、3年目には500人と生徒がうなぎ登りに増えた。いまではつねに、1000人くらいの学生が履修をしています。


- 講義ではパーフェクトな答えを求めることもあるのでしょうか。


サンデル それは目的ではありませんね。学生たちが自分の思い込みについて真剣に考えられるよう、まずは質問の枠組みをつくります。自分の考えははっきりしていますし、それを隠すつもりも毛頭ないのですが、徐々にしか出さない。これ以上ほかに意見がないほど議論をし尽くし、私の意見に学生が十分な理論で反論できるほど、いろいろな考えを列挙したあとで、自らの考えを提示するのです。そのようなプロセスを経ることで、学生たちは自力で真剣に考えることができるようになる。


- ということは、勝ち負けを競い合う一般的なディベートとはまったく異なると。


サンデル そうです。私の講義で「勝つ」ということは、「もともと自分がもっていた、道徳上、政治上の確信について批判的に考えられる」ということです。一つの見方を出して、もう一つの見方をやっつけるということではありません。


- 学生たちがあなたの考え方に反論することも起こる、ということでしょうか。


サンデル そうですね。学生たちのほうがよいポイントを突いていることもあります。非常に説得力のある見方を提示することもあります。つまり、著名な哲学者の理論を必ずしも受け入れる必要はない、ということです。プラトンやアリストテレスが著名だからといって、必ずしもその見方を採用する必要性ありません。彼らだって間違っていることもある。私は学生たちに、アリストテレスやカント、ジョン・スチュアート・ミルのような著名な哲学者と議論する力をつけてほしい、と考えているのですよ。



コミュニタリズムと儒教の親和性


- あなたの本も、そして講義も、そのタイトルに銘打たれているのは「Justice」です。しかし正義や公正とは、その国の文化に影響を受けないのでしょうか。たとえばアメリカでは「中絶問題」は政治イシューとしてかなり大きな、深刻な問題として扱われますが、日本ではこの問題が政治分野で論じられることはありません。


サンデル おっしゃる意味はわかります。つまり特定の問題はその国の社会、歴史、伝統などの影響を受けるということですね。しかしまず、それが税金であれ、政府の役割についてであれ、すべての問題について人びとはモラルの面で信念をもっていることに気づくべきです。そして自らの信念が正しい、とみんなが考えている。そこで自分の考え以外にも正しいことがあるという余裕をもたなければ、議論することは難しくなるでしょう。


さらには、たとえば環境問題を採り上げてみましょう。われわれは将来の世代が被る影響を懸念する責任があります。この惑星の将来についても考える義務があると思います。つまり、このように国境を越えた政治的、道徳的な問題が存在している、ということです。貧富の差にしても、それはある程度、どの社会でも共通となるような問題でしょう。


- 日本ではアメリカの悪いところをばかりを模倣し、貧富の差が拡大しています。


サンデル それはグローバリゼーションに関係があります。グローバリゼーションは多くの利益をもたらしましたが、貧富の差を拡大させたという問題を残しました。個人間だけではなく国家間でさえ、その差が広がったのです。この問題は、「正義」や「公正」という概念において、もっとも重要な問題を提示します。世界中がこの問題に直面しているからです。


- 逆に国家を超えた思想の類似性という点では、あなたがたコミュニタリアンが説く「徳」の思想は比較的、儒教の感覚に近いものがあると感じるのですが。


サンデル おっしゃるように、コミュニタリアンの思想と儒教の教えにはいくつかの類似点があるように思います。先に述べたとおり講義だけではなく、本でも最後には私の見方が提示されますが、そこでは徳育、政治への参加、市民道徳の育成が強調されています。その感覚と日本、アジアの思想には親和性があるのではないでしょうか。たとえば市場社会における行きすぎた個人主義を批判し、コミュニティーと公益(共通の利益)の重要性を強調する、という点などが該当するのかもしれません。不平等が拡大すればするほど、コミュニティーの道徳の骨組みが蝕まれる。そうなればなるほど、「共通の利益とは何か」という問題について一般市民の生活に新しい方向を与え、市民道徳の育成を奨励する方法を見つける必要が生じてくる、ということです。



インターネットは徳育の代用物にはならない


- そのようなことを「学ぶ」という態度にもいま、インターネットの発達など情報化社会の進展によって変化が生じているように思えます。そのような社会において情報を頭に入れるだけではなく、本質的に血肉として「学ぶ」ためには、どのような姿勢が必要となるのでしょうか。


サンデル まず「情報」と「理解」の違いを認識しなければなりません。新しい情報テクノロジー、そのなかでもとくにインターネットはわれわれを情報の渦のなかに溺れさせました。しかしそのことによって、われわれが生きている世界に対する理解が向上したかどうかは明確ではありません。「学ぶ」ということは、たんに情報を獲得することではなく、われわれの理解を深めることに関わっています。純粋な重要性をもったものについて深く思考し、熟考しなければならない。インターネットは徳育や市民教育の代用物にはなりえません。事実、それはあまりにも頻繁に、真の学習から「注意を逸らすもの」になってしまっています。


ただし、インターネットは学習の道具にはなる可能性がある。だから「Justice」のコースを録画し、議論のガイドを付けてオンラインに載せる実験に乗り出したわけです。議論のガイドのほかにも、推薦書や教育資源について読める工夫をしています。インターネットが先に述べた「注意を逸らすもの」に留まることなく、意義ある議論の道具になりえるかを示すことができればよい、と考えています。


- そのような本質的な「学び」はビジネスなどの日常において、どのような変革を個人にもたらすのでしょう。


サンデル 「Justice」の前提は、哲学とはビジネスから国民一般の生活に至るまで、日常に考える糧を与える、ということです。道徳上の選択あるいはモラル・ジレンマに直面するたび、われわれは本のタイトルにもあるように、What's the right thing to do?(正しい選択は何か)と自問しなければなりません。先の話にもつながりますが、著名な哲学者が倫理や価値観について述べたことを読んで思考する以前にもう、われわれは正しい生き方について考えを形成し、その考えに基づいて行動しています。つまりわれわれに突きつけられている課題とは、そこで行なう選択やそれに基づいて送る人生について、さらに熟考する、ということです。その熟考にこそ「学び」が入ってくる。すなわち、ビジネスであろうと日常生活であろうと、批判的な熟考と理論づけられた道徳上の議論に深く関わり、議論することに「学び」が関わってくるということです。



国民全体の議論のレベルを上げよ


- おさらいとなりますが、Ⅰ・カントの近代哲学、R・ノージックのリバタリアニズムなどと比較して、あなたの言葉でいえばコミュニタリズムとは、どのような立場を指すものでしょうか。


サンデル リバタリアリズムはいわゆる「市場の自由」を強調します。すなわち市場交換に関わるときの選択の自由を述べるのです。カントは「市場の自由」よりもさらに深い自由の概念を提示します。彼は自由を「自律」と見なします。それは自らが自らに対して与える道徳律に従って行動する、ということです。


さて、リバタリアンの「市場の自由」の概念とは対照的に、コミュニタリアンは「市民の自由」を強調します。それは公益について一緒に熟考したり、自治を共有したりすることに関連してきます。そして共通の利益について熟考するためには倫理上の教育(啓蒙)が市民に対して必要になる。すなわち自分たちをたんに消費者と考えるのではなく、民主的な市民であると見なさなければなりません。


- 米中間選挙における「ティーパーティー」運動をみても、世の中ではリバタリアン的風潮が強まっているように感じます。


サンデル アメリカの「ティーパーティー」運動は、かなりリバタリアン的な考えを活用しています。それは「大きな政府」に対して懐疑心をもっており、ほとんどの社会的問題、経済的問題に対して市場上の解決を好みます。「ティーパーティー」運動はまた、今回の経済危機において救済された銀行などへの憤りを表明しています。しかしならばその怒りのほとんどが、危機を引き起こして救済された銀行やウォールストリートではなく、政府に対して向けられたことはいささか不可解ですね。


- 政治の混迷と軌を一にして、世界は「強いリーダー」を求めているようにも感じます。「政治とは『徳』のある政治家を育てる場所である」、それがコミュニタリズムの立場であると思いますが、いまの政治のあり方をどのようにご覧になっていますか。


サンデル われわれの社会も含め、民主社会において今日の政治が直面するもっとも大きな課題は、社会正義や拡大する貧富の差、コミュニティーの衰退などの道徳的問題に取り組むため、国民全体の議論のレベルを上げる、ということです。


ここ何十年かのあいだは経済の影響で、政治が純粋に公益についての議論を行なわなかった、ということが往々にして起こりました。そうなってしまうと政治は人の気持ちを鼓舞する力に欠け、テクノクラティックで管理的な議論を生み出してしまう。われわれには倫理の面でもっと力強い市民の議論が必要です。そのためには新しい市民道徳を育成する必要がある。民主主義を繁栄させたいなら、共通の利益をもった、新しい政治への道を探す必要があります。そこから「徳」のある政治家が生まれてくるのです。


- 日本は通常の議論でさえ、苦手な人が多い国です。政治家も議論ではなく、口喧嘩のように言い合いをします。あなたのような人が日本には必要だと思いますね。


サンデル それこそが私の大きな目的です。すなわち伝統的な政治哲学のなかで、大きなアイデアに読者や学生たちを晒し、効果的に議論し、政治的、道徳的な重要な問題を議論するように勧誘する。議論好きなアメリカでさえ、政治に関する議論は貧弱化しています。多くの国で同じことが起こっているのでしょう。お互いに怒鳴り合うことが議論ではありません。相反する正義や公正、共通の利益に対する考えを理論的に維持させるものでなければならないのです。


民主主義というのは同意することではありません。お互いに尊重しながらも、意見を異にする方法を学ぶことです。だからこそ繰り返しになりますが、民主主義国家が繁栄するためには、市民がお互いに尊重しながら激しく議論できることが非常に重要になる。そのような民主主義国家の繁栄に少しでも貢献したい、と考えています。

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