国際ジャーナリスト 大野和基
著書・訳書

国際ジャーナリスト大野和基の取材秘録2003-2010
   ~取材現場の裏側から英語論まで~
*本書は2003年から2010年にオフィシャルサイトおよびメルマガで配信されたコラムをまとめたものです。
★英語に関する部分を項目ごとに抜粋しました。


<英語教育について>

- このところ、「小学校英語」が話題になり、賛否両論は無論、侃々諤々の議論が巻き起こっている。まるで、竜巻でも起こったかのような勢いだ。当分この論争は収まりそうにない。反対派は、主に英語を職業的に使っているプロの人に多いが、共通している意見は、「まず日本語をしっかりやることが重要」だと言う。この意見に反対することは難しいが、英語圏の高校を卒業してきた帰国子女に8年間英語を教えてきた経験から言うと、中には日本語を後からやって、きちんとバイリンガルになっている生徒もいることは確かである。つまり英語を先にやって、少し遅れて母語である日本語をやってもきちんとバイリンガルになっている例も多い。ただこの場合は英語圏で教育を受けているという、特殊な環境である。

- 脳科学の面から言うと、「日本人が、英語のように、パラメーターがまったく違う言語を習得しようとするのだから、時間がかかるのは当然である。 脳が日本語に特化されていればいるほど、第二言語習得には時間がかかる」と酒井邦嘉氏(東京大学大学院総合文化研究所助教授、『言語の脳科学』はお薦めの本)は言う。さらに「言語習得とは、生得的にもっている言語の原理に基づきながら、母語に合わせてパラメーターを固定していく過程」だという。

- 母親が日本人、父親がアメリカ人の場合、その子供は脳が柔軟なうちから日本語と英語の言語環境にさらされるので、自然とバイリンガルになる。ぼくが教えた生徒の中に、父親がフランス人、母親が日本人でパリでずっと生活し、アメリカン・スクールに行っていた生徒がいたが、見事なトライリンガルで、どの言語をきいても、母語に聞こえた。生徒の中には、日本の大学の在学中に訓練を受けて、立派な同時通訳者になっているものもいる。

- ぼくの場合はアメリカに18年間生活する前は、日本で英語を学習したが、率直に言うと、日本語が未熟のまま、英語をやって、何回も行き詰まり、日本語と英語を平行して勉強するしかなかった。振り返ってみると、これも学習法の一つだとつくづく思うのである。脳が日本語に特化される前に英語をやって、日本語と英語を平行してやるのも一つの方法であり、多くの専門家が言うように、まず「母語をしっかり」しなくても、平行してやればどちらも客観的にみることができるので、言語学習の醍醐味を味わうことができるのではないだろうか。日本語を英語からみながら学習するのもおもしろいのである。

- 「小学校英語」について、最近読んだ本でもっともバランスの取れた本は『危うし!小学校英語』(鳥飼玖美子著)である。これはみなさんにお薦めしたい本だ。中に書かれているすべてのことに賛成するわけではないが、少なくとも日本で英語をマスターしたい人にはためになる。結局国際結婚の子供であるというような特殊な環境でない限り、どちらも母語であるように話せるようにはほとんどならないだろうが、今の日本の環境で、小学校から英語を採り入れることが無意味であることもよく理解できるだろう。

- さらにおもしろいのは、話すときに使う脳の部位と、書くときに使う部位がまったく違うことである。べらべら話せても書くと、幼稚な英語しか書けない人がいるとは、よく言われることだが、「書く」ということは特別な訓練が必要であるということだ。話すことは人間の本能であるが、書くことはそうではないということである。「そもそも人間には複数の言語を身につける能力が備わっている。子供のときにいろいろな言語に自然に接することができる環境があれば、それに越したことはない」(酒井氏)のである。

- どうしてもかなり確実にバイリンガルにしたいのなら、ある一定の年齢まで英語圏の学校に行かせ、ある年齢に達すると帰国するのがベストである。 そのまま英語圏にいると、どうしても日本語が遅れるからである。これは親次第だろう。実際、ぼくが教えた生徒の中に、子供だけを英語圏に入れて、バイリンガルになった生徒を何人もみている。人格形成の議論はここでやらない。あくまでも言語習得の点からだけの話である。ぼくはそこまでする勇気はないが、自分の娘(在米7年)をみていると、今は日本語がかなり強くなったが、それほど文法(日本で教える文法)を知らないのに、普通に英語を読んでいるらしい。同じ学年で文法がほぼ完璧にできる生徒は、英語の本をすらすら読めないし、さらっと内容把握もできないようである。 こういうのをみると、日本的な文法をやることの意味を疑ってしまう。ぼく自身は文法の重要性を痛感しているが、それはネイティブからみた文法ということで、日本で教える文法ではない。

- 今の日本では不可能であることはわかっているが、一つ提案を出しておく。それは科学(理科)と医学の授業を英語でやることだ。科学の世界の共通語が英語であり、世界中のかなりの医学部は英語で授業をしている。英語が共通語であるからだ。論文も英語で書かねばならないし、科学と英語は切っても切り離せない関係にある。いくら日本語で発表しても、世界には認められない。同じ発見をした場合、英語で先に発表した方が認められる。ぼくは医学教育を英語で受けたが、そのときに思ったのは、英語のまま脳に入れて、いちいち日本語で覚える必要はない、ということだ。日本語で書くときに辞書を引けばいいだけだ。日本でも医師は単語は英語で当然覚えているから、やはり英語で科学教育、医学教育をするのがいいと思う。ただ、日本でそれを実行するとなると、やはり教える教師がいない。だからこれはa pie in the skyなのである。

- 日本人と英語は切っても切れない関係にあるが、学習において、費用対効果がこれほど悪いものはない。聞いているだけでしゃべれるようになる、とか、毎日少しだけ練習するだけでマスターできるようになるとか。実際はありえないような宣伝が新聞や機内誌などを読んでいると目に入ってくるが、英語ほど、入門時の“簡単さ”と実際にわかるようになるまでの“レベル”がかけ離れている言語も少ないだろう。

- 英語をマスターしたければ、まず英会話学校に行かないことである。最近は、昔と違って、一銭もかけなくても学習できる環境にあることに気づいているのだろうか、と思うほどである。例えば、ぼくの好きなNPR(National Public Radio)は、無料でいつでもどの番組でもダウンロードできるから、アメリカにいなくてもいいのだ。transcriptも簡単に手に入るから、学習には最適である。

- ジャーナリズムの世界では、世界中どこに行っても最低英語ができて当たり前で、その部分は普通議論の対象にならないが、日本では今でも、母語である日本語が大切だと言って、英語を学習する前に日本語をしっかり学習せよ、と言っている。ぼくはこれに反論するつもりは毛頭ないが、英語や他の外国語をやると母語を客観的に見ることができるので、母語も上達するのである。相乗効果が出てくると言った方がいいだろう。「外国語を知らないものは、自国語についても何も知らない」というゲーテの名言があるが、その通りだと思う。ぼくが母語である日本語に関心を持ったのは、英語を学習してからだった。だから、英語を学習する前に母語をしっかり学習せよ、というのは正しいようで間違っている。同時にやればいいのである。日本文学を先に日本語で読み、次に英語で読むのもおもしろいものだ。翻訳の限界を知る最短距離である上に、英語をマスターする近道でもある。さらに、文学を原語で読むことがいかに重要かを知るきっかけにもなる。ただ、誤解を避けるために、やはり翻訳は重要であることも言っておく。

- 『クリエイティブ・クラスの世紀』の著者リチャード・フロリダ氏にインタビューしたときも「日本の大学は英語で教えるべきだ。そうしなければ優秀な頭脳が集まらない」と指摘していたが、これを、母語をおろそかにすることと勘違いする人がいるから始末に悪い。ぼくの教え子で、早稲田の国際教養学科に入った人がいるが、「授業がすべて英語で行われると思っていましたが、ある有名な教授でも最初の挨拶を英語でやるとあとは日本語で授業をやっています」といささか軽蔑するような笑いを浮かべていた。教授ともなれば、英語で普通に授業ができることがグローバル・スタンダードだと思うが、日本では英語で自分の専門の講義ができなくても教授になれるところが、日本を特異な国にしている。何回も言うが、英語で授業をやることと母語である日本語をおろそかにすることは別次元である。

- 日本の学校英文法はコツで覚えられる。だから文法問題はコツで解けるが、普通の速度で英語の本が読めないのは明らかにおかしい。英文法のコツを覚えること自体はあまりにも簡単だが、英語という言語を身につけているかどうか判断するのに、英文法の試験で評価するのはおかしい。そんな試験をするくらいなら、完結した短編小説を1時間で読ませて、次の1時間でそれについて英語で書かせた方が、真の英語の力がわかる。恐らく「コツ」で英語を勉強してきた人はここで力のなさがばれることになる。たくさん英米文学をじっくり読んできた人は、結構立派な味のある英語が書けるものだ。英語は書かせるとすぐにその人の教養レベルがわかる。複雑な文章表現ができるかどうか、使う語彙レベルを見ると一目瞭然だ。文法のテストをすることなく、真の英語力がわかるだろう。一見流暢に英語を話す人でも書かせると稚拙な英語しか書けない人がいるが、それでは通用しない。アメリカ社会では社会的地位と文章の表現力が比例する。

- ぼくは決して日本語をおろそかにして英語をマスターせよ、と言っているのではなく、むしろ英語をやればやるほど日本語を客観的に見ることができるので、一石二鳥と思っているくらいだ。森恭子さんのように母語は日本語でありながら、最初から英語で小説を書き、アメリカで認められている作家。イーユン・リーは母語が中国語でありながら、英語で小説を書いて第一回フランク・オコナー国際短編賞を受賞している。ちなみに第二回は村上春樹が受賞しているが、これは翻訳だから本来の価値とは異なる。翻訳は翻訳であり、原作ではない。英語もそのまま読む習慣がつくと、どれほど上手い翻訳でも読む気をなくする。別の作品として読むなら話は別だが。

- 英語と日本語の距離は想像以上に大きいから、ほとんどの人はネイティブの知識人のレベルまで達することができず、壁にぶつかったままである。50年間NHKのラジオ英会話をきいている人もいるくらいだが、毎年あるレベルにまで達しては、また元のレベルに戻るという意味のない作為を繰り返しているのである。

- ぼくは中学になる少し前から津田塾卒の、祖母と同年齢の頭脳明晰な女性(今生きていれば105歳)に英語を習ったが、あっという間に英語ではなく日本語で行き詰った。ぼくが猛烈に読書をやり始めたのは高校に入ってからだから、英語を母語で表現したらどうなるか、という点で行き詰ったのである。

- ところが、今でも覚えているが、中学の時でさえ、英語から見た日本語はおもしろいと思ったのである。高校に入って、英訳されている日本近代文学を日本語と英語で読み始めたが、さらにおもしろくなり、日本語の深さ、英語の複雑さにのめりこんでいった。ぼくが言いたいのは、英語と日本語を同時にやった方がはるかにどちらの言語も深く味わえるということだ。英語も日本語も客観的にみることができ、頭の中に回路が2つできるような気がする。英語を話したり、書いたりしているときは日本語で考えていないし、日本語のときは英語で考えていない。これができるようになるにはまったく異なる回路がないと不可能である。

- 日本人がよくやるのは日本語で考えながら、英語を話したり、書いたりすることだが、これをすると脳に対する負荷が大きくなるばかりか、日本語を知らないネイティブからするとあまりにも不自然な英文になり、理解してもらえないことが多い。日本人が書く英語のメールでも同じことだ。最初の1行を読んだだけで、この人は日本語で考えて英語を書いていることが一瞬にしてわかる。それをやっている限り英語をネイティブレベルに持っていくのは不可能である。

- ぼくが習った恩師は、英語の小説をある程度まとめて音読したあと、本を裏返しにされ、すかさず英語で内容に関する質問が飛んでくる。そういう訓練を何年もすると英語で考えざるを得なくなる。音読したときに英語のまま頭に残っているのである。自分で好きな英語の本を読んだ時も、何ページの上から何行目にどういう文があったか、その単語は何ページの上から何行目にあったかも自然に覚えている。それくらい自然に頭に残らなければ、何ページも英語を読まされたあと、何も見ないで英語で答えることはできない。まともに答えられないと、こっぴどく怒られたので、一回90分の訓練を受けると汗だくになり、脳が興奮したまま自宅に戻るとあまりの空腹にごはんを数杯お代わりしたものだ。もう40年以上も前のことだが、その恩師には本当に感謝する。

- その訓練とは別に日本語訳の練習もちろん重要であるが、それは英語で理解したと言っても母語の日本語できちんと説明できないのはおかしいという前提に立っているからだ。当時あまり日本語で本を読んでいなかったぼくは、「日本語を勉強せよ」と何回も叱られた。それは決して英語をやめて、日本語を勉強せよと言っているのではない。また日本語をきちんとやってから英語をやれと言っているのではない。もし日本語をやってから英語をやるのが正しいとすると、永久に英語をやることはないと思う。母語も英語も常に学習する情熱と努力が重要であって、どこまで日本語をやったから、英語の学習に移ってもいいというのは甚だおかしい。環境がうまく整えば、バイリンガル、あるいはそれ以上になるのである。

- 英語教育について、小学校のときからやることについては今でも知識人(?)と言われる人たちが侃々諤々の議論をしているが、言葉、しかも好むと好まざるにかかわらず、今世界で共通語として完全に確立した英語という言語で、聞き取りができない、発音ができないというのは非常に大きなハンディとなる。小さい日本を一歩出れば日本語は通用しないのだから。通訳をつければそれでいいというほど単純ではない。聞き取り、発音について言うと小さいころからやるに越したことはないのである。

- 娘はアメリカで生まれ、小学校の低学年で帰国し、その後毎週のようにアメリカンクラブで探したネイティブに読み書きをみてもらった。一旦ネイティブと同じ耳ができ、発音ができるようになると、それを維持する方が、忘れてから取り戻そうとするよりもはるかにエネルギーが少なくて済むのである。よく帰国後せっかく発音を覚え、耳ができた子供をほったらかしにする親がいるが、子供はほっておくと忘れてしまう。それほどもったいないことはない。発音と耳の訓練は小さい頃からやるに越したことはない。なぜなら英語の音の方が日本語よりもはるかに複雑であり、大きくなってからやろうとすると音の区別さえできないからだ。

- 日本の小学校ではアメリカの現地校のように英語だけでしかも普通の速度でやるわけではないので、その中でネイティブのようになるのはかなり難しい。親は子供に期待しているだろうが、その期待は裏切られることが多いだろう。単なる親の気休めにすぎないと思う。今の日本の問題はきちんと教えるネイティブの教師があまりにも少なすぎることである。ちなみに、日本人の場合アメリカで生まれてそのままずっとアメリカで暮らすとバイリンガルになるのは甚だ難しいと思う。日本語の自然な環境が家庭の外にほとんどないし、日本語を正式に使う機会もほとんどないからだ。よく話している部分だけをみてバイリンガルになっていると勘違いするが、書かせると非常に幼稚な日本語しか書けないことが多い。日本語でも英語でも公のところで通用する文が書けないのは、バイリンガルではない。

<英語の重要性> <真の英語力> <英語の使い分け> <危機管理の英語>
<発音について> <翻訳の功罪> <英語教育について> <英語の難しさ>
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